地球の走り方(Q&A)

 

Q1.6年間の冒険旅行以前のツーリングや自転車暦を教えて下さい。

Q2.この冒険旅行を思い立ったきっかけは?

Q3.コミュニケーションで困ったことは?

Q4.破損パーツの修理や交換はどうしたのですか?

Q5.これだけは装備したい旅の必需品だった物を教えて下さい

Q6.世界各国の気候に関して1つ。ツーリングの服装は?また暑か ったところ、寒かったところは?

Q7.もう一度走りたいところともう2度と走りたくないところは?

Q8.野宿体験の実際を教えて下さい。

Q9.事故に遭ったことはありますか?

Q10.クラス別のお薦めのツーリングルートは?

Q11.自転車旅行でなかったら知り得なかったことがありましたか?

Q12.各国の国民性の印象は?

Q13.各国の郵便事情でかなりトラブったと聞いていますが…

Q14.海外長期ツーリングをめざすサイクリストにアドバイスを

 

 

 


Q1.6年間の冒険旅行以前のツーリングや自転車暦を教えて下さい。

A.'72年、モーターサイクルによる日本一周(22日7300km)。'74年、オートバイから自転車の転向。以来休日を利用して日本各地を走破。'79年、ヨーロッパ一周(9ヵ月20ヶ国2万2000km)。'82年、なるしまフレンドチーム所属。第7回チャレンジサイクルロードレース青年Cの部第3位。RRAマウンテンサイクルレース第16戦一般の部第1位。同第17戦シニアの部第2位。第3回神鍋カップ・サンツアーロード、チームロードの部(なるしま)第1位。同オープンの部第2位。 戻る 


Q2.この冒険旅行を思い立ったきっかけは?

A.僕の場合、急に思い立ってどでかいことをしてやろうと思ったわけではなく、徐々に行動範囲が広がっていっただけ。日本各地を旅した後、宗教、歴史、文化、自然、風俗、習慣、言語などの異なるところを見てみたいと思い、社会人生活3年の後休職してヨーロッパ一周をしてみた。ところが先進国全般がそうであるように、結局ヨーロッパは日本と同じで、食料、水、宿に困るようなこともないし、 未舗装道路を見つけるのが困難な程、文明化されているため楽に旅が出来てしまった。そのため次回はカルチャーショックの度合の大きい第3世界(中南米、アフリカ)を旅してみたいと思い、復職して3年間、資金を蓄えながら各種の本を読みあさったり、語学(英語・スペイン語)を勉強していた。そうこうしているうち、どこか1ヶ所にしぼって旅したら、どうせその後また別のところに行きたいと思うようになるのだろうから、それならいっそのこと世界すべてを回ってやろうという気になった。  戻る 

 

 

Q3.コミュニケーションで困ったことは?

A.世界を旅するための重要3カ国語は、英語、スペイン語(スペインや中南米)とフランス語(フランスや西アフリカ)。英語・スペイン語は出発前の2年間、NHKのラジオとテレビ講座で独習。最初のスペイン語圏メキシコで毎日10コほどの新しい単語を覚えていったら4ヶ月後南米に入るころには日常会話や簡単な手紙は大丈夫となった。フランス語はパリで1ヵ月半居候させてくれたフランス人サイクリストから習った。フランス語の環境だったので簡単な日常会話は比較的早く覚えられた。そのほか、世界には種々多々の言語があるが、あいさつや数え方は努めて覚えるようにしていた。現地語を少しでも話せるとなると相手の対応も変わってくる。一番困ったのはチェコスロバキアで高速道路を走っていたらパトカーにつかまり、僕は一生懸命に英語、ジェスチャー、絵まで描いて“ユーゴスラビアでは公認だった”と説明したのだが、警官はカンカンになる一方でチェコ語でやたらまくし立てられたとき。 戻る 


Q4.破損パーツの修理や交換はどうしたのですか?

A.8万9370kmの走行に耐えたのは、エイメイのフレームとキャリヤ、フジタ・プロフェッショナルスーパーサドル、藤田製のバッグ類。クランクセット、ペダル、ハブ、スポーク、リムブレーキレバー、ディレーラー、シフトレバー、ワイヤ類は'83年11月(2万8000km走行時)、'85年7月(5万5000km)、'86年9月(7万000km)の3回に交換。チェーンとフリーは1万〜1万5000kmごとに交換。トルコで右側の問うクリップが破損した。そんな物どこでもうっているものと思い込み捨ててしまったところ、イスタンブールでさえ見つからず、結局ギリシャで買えるまで1800km、右足はトゥストラップまで走り続けたことがある。またザイールの悪路で後輪のリムがグニャリと曲がったときには、スポークをはずし、リムをコンクリートの角にグイグイと押しつけ修正してから、またホイール組みした。 戻る 

 

Q5.これだけは装備したい旅の必需品だった物を教えて下さい

A.南米はアフリカでは道路に距離表示のない国も多いので、サイクロコンピュータがあると、次の食料の買えそうな町、宿までの距離が分かり大変重宝。トラックの厚めのチューブ(海外ではよく道路にバーストしたものがころがっている)を直径10cm位の円状に切り抜いたものは、安宿のゴム栓のない洗面所で、水をため洗濯するのに便利。キャンプストーブ(どこでも燃料が入手可能なガソリン用)や水の消毒剤(1リットルに1錠入れ1時間経てば飲用可)は下痢、コレラ、A型肝炎を防げるので第3世界を走るのなら絶対必要。世界各国要覧(二宮書店)には各国の説明が簡潔にまとめられているので自分の旅している国の理解に役立つ。PHILIPS' POCKET ATLAS OF THE WORLDは小型軽量。詳細地図がまだ入手できない今後の走行予定を立てたり、今まで走ったコースの確認などに役立つ。ダウングースの高級な寝袋は寒冷地での明日の走行を充実させる快適な睡眠のため必要。 戻る 



Q6.世界各国の気候に関して1つ。ツーリングの服装は?また暑か ったところ、寒かったところは?

背中にうっすらと汗をかく程度の走行に快適な気温は15℃。その位であれば下はレーサーパンツ、上はTシャツの上に半袖レーサーシャツ(時にはアームカバーも)。セーム革付き、伸縮自在なレーサーパンツは腰、脚を優しく包んでくれるし、レーサーシャツの後ポケットはサイフやハンカチを入れられる。レースをするまでの僕はレーシングウエアが、ツーリングにも快適であるとは知らなかった。もっとも暑かったのは、オーストラリア。Tシャツとレーサーパンツ、それに麦わら帽子をかぶっていたが、48℃の乾燥した空気はまさに温風ヒーター、目も口もまともに開けていられなかった。頭はボーッとしてくるし体の表面が乾いてカーっと熱を持ち日射病の一歩手前までいき、1時間もたつと目まいがして、まともに走れなくなってしまう。しかし、オーストラリアは広大、直射日光を防いでくれる休憩所が見つかるまでひたすら走るしかなかった。寒かったのは、'83年クリスマス頃のアメリカ、ノースカロライナ州。丁度、大寒波に襲われマイナス22℃にまでなった。強風が吹いていたので体感温度はマイナス40℃。さすがに、そのときは走れず、ダイヤコンベUSAでお世話になっていた。ようやく寒波がゆるみ走行開始したものの、それでもマイナス10℃。時速20kmの走行として、体感温度はどの位になったのだろう。毛糸の帽子、軍手、革手袋そしてゴアテックスグローブカバー、くつ下2枚にゴアテックスシューズカバー、衣類はありったけ着込んでいた。カバー出来ない顔はというと鼻からの息でヒゲは凍りほおはチクチクと針で刺されるような痛みを感じた。'85年11月のフランスからイタリアへのアルプス越えはマイナス5℃の雪の中。当然急勾配の上りがあり、峠に着いたときは体中汗だらけ。暗くなる前に次の町に着きたいと思って、着替えをせず下ったところ、手足の指先は、ナイフでズタズタに切り裂かれたような痛みが走り、結局その後1ヵ月ほど、足の指先の感覚はしびれたままだった。 戻る 

 

Q7.もう一度走りたいところともう2度と走りたくないところは?

A.もう一度走りたいというのは、物価が安い、人が好い、景色がいい、そのどれかが含まれるところである。例えば、ニュージーランド、カナディアンロッキー、アルゼンチン、アイルランド、ハンガリーなど。2度と走りたくないのは、前問の答えにある、気候の厳しいところ。そして物価の高い国である。例えば、オーストラリアや北欧。完全走破に失敗したサハラ砂漠や、マラリアでダウンしたザイールはつらかったが、また機会があれば行ってみたいと思っている。 戻る 



Q8.野宿体験の実際を教えて下さい。

A.安全面からすると、人目につかない所に、暗くなる寸前にテントを張るか、あるいは逆に、ガソリンスタンドや食堂、警察の建物脇に張らしてもらうのも一案。貴重品はしっかりテント内に入れ、また自転車には錠をかけたり、テントと結び付けたりして盗難を防ぐようにする。中南米では寝袋の横にヌンチャクを置き、アフリカではガソリンの入ったシグボトルとライターを置いて、万が一だれかがテントを触ったりでもしたら、すぐに引っぱたいたり、ガソリンをぶっかけて火をつける準備ができるようにしていた。快適面からすると、草むらや枯葉の上がフカフカして気持ちいい。雨や強風時が一番嫌で、そのときには屋根のある休憩所、空屋、軒下、道路脇の大きなコンクリート管内などないかと夕方になると辺りをうかがいながら走っていた。民家が近くにある場合は、こちらから先にあいさつして、自分が怪しい者でないことを説明しておくと後でトラブルが起きない。水があれば、米を炊いての夕食、食器洗い、朝食、昼食用のコーヒーや紅茶をサーモスに入れる分までまかなえる。自転車ボトルの先端からチョロチョロと小出しにすれば、結構少量の水で食器洗いや歯磨きまでできるもの。 戻る 

 

Q9.事故に遭ったことはありますか?

A.ニューオリンズで道路脇に駐車していた車が突然動き出し、右リヤのサイドバッグと車のフロントバンバー左側とが接触して転倒。バッグとキャリヤが破損、手足に擦り傷を負ってしまった。損害はたいしたことなかったが、目撃者がいないのをいいことに、その老婦人、自転車の方からぶつかってきたのだと警官にウソをついたのには、あきれてしまった。海外では、日本と違い、自分の身は自分で守るもの、すぐに自分で目撃者を探さなかったことが悔やまれた。

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Q10.クラス別のお薦めのツーリングルートは?

A.日本と同じ感覚で、特に何の準備もいらずに走れるというのを初心者向けというのなら、ニュージーランド、オランダ、デンマーク、アイルランド。交通量は少ないし、宿は多くテントなしでも大丈夫、食料、水はどこでも入手できるし英語も通じる。病気の心配がなく、チャレンジしがいのあるのを中級というのなら、北欧やオーストラリアの横断、ヨーロッパ一周。スペイン語やフランス語を少しでも話せるようになることは、次の大きな旅への踏み台になる。得体の知れない風土病、肝炎や下痢の可能性のある水や野菜。あるいは政情が安定しておらず、新情報を聞きながら旅を続ける国、ジャングルや岩石だらけの悪路、自転車の具合が悪くなったらすべて自分で直せるだけのメカ知識、英語が全く通じない――そんな状態でも絶対あきらめない精神力と強じんな肉体の要求されるのは中南米や北・西・中央アフリカ。これらをこなせるのが上級といえる。 戻る 

 

Q11.自転車旅行でなかったら知り得なかったことがありましたか?

A.バスや列車を使うと観光地間の点の旅になってしまうが、自転車だとどうしても小さな田舎町を通らなければならないので観光化されていない素朴な人々との出会いが必然的に多くなるし、スケジュールにとらわれないので、いくらでも現地の人々と話し合える。またエンジン付きの冷暖房完備の旅と違って自転車は、自分の意志がなければ前に進んでくれない。その意志があるからこそすべてのことに対しても積極的に理解しようと努めるようになる。各国の地形や天候はおのずと体験できる。 戻る 


Q12.各国の国民性の印象は?

A.オーストラリア人はよい意味でのクレイジー。ニュージーランド人は穏健。アメリカ人はほがらか。アルゼンチン人は親日的で親切。ブラジル人はとにかく馬鹿陽気。イギリス人は暗―い。フランス人ははにかみ屋だが慣れてくるといい奴。イタリア人は器用。イスラエル人は何でもすぐに金に結びつける。トルコ人は親日的でおだやか。スカンジナビアの人々は個人主義者。オランダ人はサイクリスト。スペイン人は田舎っぽい陽気さ。モロッコ人はしつこい。アルジェリア人はリンガラミュージック一辺倒。そして最後に日本人は視野狭く、他人と同じことしかしないしできない。 戻る 

 

 

Q13.各国の郵便事情でかなりトラブったと聞いていますが…

A.手紙・小包を日本から、あるいは日本へ送って着くかどうかというのは深刻な問題である。ペルーに航空便で送ってもらった眼鏡は受け取るまで1ヵ月半かかった上一緒に入っていた本は盗られていた。アルゼンチンへのフロントディレーラーは届かず急きょテレックスを打ち2度目の物を受け取った。パラグアイではタイヤ2本受け取るのに2日かかり、かかった税金、ワイロ、手数料の合計は現地で新品2本買えるだけの金額になっていた。ザイールへのフィルムは未着……。日本大使館宛にしておいても郵便局からは通知書だけが届き、それとパスポートを持って出向き、税金や手数料を払って品物を受領というパターンは第3世界で多い。1週間しか預からず、その後は1日いくらで保管料がかかる国もあるし、ひどい所では送り返されてしまう。外国から送る場合、できるだけ首都の中央郵便局から航空便で送れば、まずOK。サイクルスポーツへの原稿とフィルムは書留にしていたらすべてが届いていた。ほかの旅行者や現地に住む外国人に事情を聞いて臨機応変に対処することが大切。 戻る 


Q14.海外長期ツーリングをめざすサイクリストにアドバイスを

A.容易な所から始め、自分の旅のパターン、ペースというものを作った後、徐々にハードな所へ行けばそれ程困難はない。僕がこの旅に出た当初など、まだ全体の100分の1も終わっていないのか、と先が思いやられたものだったが、1年を過ぎると余裕が出てくるもの。力みの取れたマイペースの旅に喜びが持てるようになることは完走への大きな一歩だろう。世界に出たら相手はあなた=日本人=日本としてみてくる。相手の言動を善意に解釈するかで相手の日本に対する印象を大きく変えてしまうことになる。せっかく世界に出るのだったら、積極的に腹を割って現地の人々と話し合い友人をたくさん作るべきだと思う。それこそ日本が国際化するために必要とされていることだと確信する。 戻る 

 

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